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葫蘆(ころ)島  (Adobe Acrobat eBook)





 葫蘆島港=1946年
作者 葫蘆島市政府新聞弁公室
遼寧省社会科学院歴史所
訳者 山辺悠喜子/宮崎教四郎/和田千代子
ダウンロード版価格 1,590円(税込)
文字数/ページ数   60千字/159P
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 本の内容
遼寧省・葫蘆島。63年前、この島から100万人以上の日本人が引き揚げを果たした。引き揚げの背景になにがあったか?中国は引き揚げをどう捉えたか?引き揚げの実態とは?本書では、発掘された一級史料と最新の研究をもとに、その全貌を明らかにする共に、戦前の弥栄村移民団員の生活から敗戦後の引き揚げまでの現場を記録した約250枚の写真からひもとき、知られざる引き揚げの内実に迫る!

1941年4月、広島の移民が錦州(現在の遼寧省錦州市)大河口に到来、移民村を建設した。団長今田栄次。1943年12月現在、団の総戸数37戸、88人。 邦人の難民収容所-奉天南満中学堂、現瀋陽市第23中学 葫芦島に向かう途中の邦人 邦人を迎えて運ぶ白山丸


 目次
前書き
中国東北日本移民
早期移民
試験移民
国策移民
百万日本居留民の大送還
東北の日本居留民送還の部署
国民党制圧地区の日本居留民捕虜送還
中共制圧地区の日本居留民送還
歴史のこだま
歴史を思い返し、平和を最も大事に思う
再生の地を訪れ、引き続き友誼篇を書く
友好の木は何時も青く茂っている


 まえがき より
葫芦島は中国遼寧省西部の錦州湾にあり、東西南三面が海に臨み、北端は陸地に接し、あたかも海面に漂う葫芦のようなので、この名がある。1908年、清政府はここに港を建設したいと考えたが、辛亥革命のため中断した。1930年、張学良はオランダの治港会社と合同調印して、正式に築港建設を開始したが2年目に「九一八」事変のため中止した。日本の東北占領後、北票、阜新の石炭を海路日本に運びたいと欲し、1936年に開始して5年間で港とその付属施設の建設を計画した。しかし、第一、第二埠頭が完成し、第三埠頭を半分建設したところで戦争が終結した。このように当時まだ草創期段階の粗末な港が、戦後100万の居留日本人を送還する出発地になった。

戦後の日本人捕虜.居留民の送還は中米ソ等同盟国が必ず解決すべき戦争遺留問題だった。当時、海外に在留した日本人は660万人にのぼり、そのうち軍人は300万以上、非軍人は330万人余だった。そして中国戦争地域の居留邦人は200余万人、捕虜が194万人(ソ連に押さえられた47万余人を含む)。

1945年10月25日、中米双方は「ポッダム宣言」の精神に基づき、上海で会議を召集して、居留邦人.捕虜送還問題の協議を進め、原則上、各戦争地域に滞留している居留邦人.捕虜を一律組織的に日本へ送り返すことを確定した。中国戦争区の居留邦人.捕虜に関しては先ず関内、次いで関外を対象に、時期とグループに分け、中国政府が責任を持って陸路を港まで輸送して集め、米軍は船を組織して海上輸送のみ責任を負う、期間は1946年末に完了する、ことなどを会議で定めた。

東北地区の居留邦人の送還問題は、中国戦区における送還計画の重要な構成要素だった。上海、天津、青島、連雲港など地域の居留邦人.捕虜送還が基本的に終結した後、東北地区の送還が議事日程に上った。

東北居留邦人は以下の特徴を持っていた、即ち、一つは、居留時期が早かった。日本軍国主義は大陸政策を推進するため、東北を植民地に変え、早くも1905年日露戦争終結後直ぐ、「関東州」(現在の旅順.大連地区)植民地と「満鉄」付属地移民を計画的に開始し、1930年までに、移民は21,5643人になった。二つめは、居留邦人が多かった。1931年、「九一八」事変、日本の東北武装占領、その移民規模は絶えず拡大し、1944年9月、東北における居留民は1662234人になっていた。3つめは、分布の範囲が広大だった。

大送還前までに、東北全区の居留邦人は145万人、その分布は、国民党支配区84万人余、共産党支配区33万人余、ソ連が支配した大連地区27万人余になっていた。それ故、東北居留邦人の送還は関内に比べて、地域の広さ、時間上の緊迫性、任務の重さと組織上の複雑さなどずっと大きかった。

居留邦人の順調な送還を保証するため、アメリカの視察グループの協調のもと、中国側では、李修業将軍を処長とする国民党東北官署日本居留民.捕虜管理所、李敏然(李立三)将軍を処長とする東北民主聯軍日本人送還管理所を設立し、3者が共同して日本人居留者送還に関する問題を協議した。3者が協商確定したのは、葫芦島を輸送港とし、1946年5月初めに開始して、先ず国民党支配区の居留邦人を輸送し、国民党東北官署が責任と組織を以って実施する。共産党支配地区の居留邦人は、東北民主聯軍に責任を集中して、当年8月より開始し、陶頼昭、拉法両地区で国民党当局に移交して、葫芦島港へ輸送する。安東(現丹東)の居留邦人は、民主聯軍が組織して、朝鮮陸路と鴨緑江を経由して海運輸送する。大連地区の居留邦人はソ連軍が責任をもって大連港より直接輸送する、ことを確定した。

1946年5月7日、第1組の居留邦人2489人が2隻の船に分乗して葫芦島から日本に向けて急航したが、葫芦島日本居留者大送還開始と掲示されていた。この後、東北各地に居住、抑留日本人が、計画に沿ってぞくぞくと葫芦島港に集まり、登船後帰国した。統計によると、1946年5月7日から12月31日までに葫芦島送還居留邦人は158組、計1017549人、1947年6月25日から10月25日までは12組、計29627人、1948年6月4日から9月20日までに、送還3781人、3年中の送還居留邦人は総計1051047人になった。

葫芦島居留邦人大送還は、中米、国共が協調、合作して戦後問題を処理した結果である。中国政府は、極大の人力、物力、財力を提供して、邦人送還の組織と実施を進行させた。徴用した汽車13441輌、アメリカ葫芦島海軍基地司令部は極めて短時間に、日本海第6艦隊運輸艦を計120余隻を集中させ、葫芦島に運んだ居留邦人は、毎船千人乃至二千人、800余回出動した。葫芦島日本人送還は、中華民族の広く大きい度量と中国人民の人道主義精神を十分に体現している。とくに葫芦島はかつて日本侵略者の蹄鉄に蹂躙された土地であり、いまなお全身傷だらけの状況下、私心なく体を張って百万の敵国人民を受け入れ、彼らをここから帰国の途に就かせたのだ。今も多くの日本居留民は、葫芦島を再生の地と見なしている。

1949年、新中国成立した後、興すべき事業が多くある中華人民共和国政府は、50年代に中国赤十字会と日本の友好団体等に依頼して、当時の中国にいる帰国したい日本居留民を送還する努力を頼み、半月1組約5000人の規模で、1955年3月末まで、天津、上海、秦皇島から3万近くもある日本居留民の帰国することにしていた。それで、この人道主義の大送還運動が円満に終止符を打ち、日本には勿論、国際にも大きな影響を及ぼした。
 

 

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