G
グローバル科学文化出版
Welcome to Global Science and Culture Publishing        


HOME出版>祖国への道
                                                  
                                          

電子版好評発売中!パソコンに収納でき、置き場所に困らない。




祖国への道(Adobe Acrobat eBook)
中国激動の大地に生きた日本人残留孤児たち







浅草を見学する訪日調査団の残留孤児
作者 張志坤/関亜新
訳者 田建国/岩城浩幸/董燕
ダウンロード版価格 1,260円(税込)
文字数/ページ数   50千字/168P

在庫:
数量:
 本の内容
敗戦で旧満州(中国東北部)に取り残された日本人残留孤児たちと、彼らを大切に育てた、中国人の養父母。社会の底辺でもがきながら、戦後の混乱をくぐりぬけ、その時々を精一杯生きた孤児たちと養父母の愛情が詰まった、魂を揺さぶる記録写真集

長春日本人収容所の子供たち=1946年7月 残留孤児と中国人養母 残留孤児と中国人養父 帰国して職業学校を見学中の残留孤児


 目次
序(その一)(劉徳有)
序(その二)(若山喬一)
前書き
第一章 白山黒水の敵国の捨て子
一、日本から中国東北地方への移民
二、戦火を生き延びた日本人孤児
第二章 中国の養父母の広い懐
一、中国の家庭に入った日本人孤児
二、日本人孤児を育てた中国の父母
三、人道と博愛の賛歌
第三章 肉親探しの道
一、身の上の謎を解く
二、肉親探しの道を踏みしめて
三、帰還-夢の実現
第四章 中日友好平和の使者
一、春を告げる小さな草
二、華夏・扶桑に虹を架けて
参考文献
訳者後書き(その一)(岩城浩幸)
訳者後書き(その二)(田建国)


 訳者後書き より
岩城 浩幸
東京放送報道局取材センター長兼解説委員
元北京支局長


1981年3月、中国残留日本人孤児の第1回訪日調査団が来日した時、私は入社3年目の駆け出し記者だった。しかし、中国への関心もあって自ら調査団の取材を志願し、ベテラン記者に混じって連日、調査会場となった東京代々木のオリンピック青少年センターに、詰めることになった。

時は日中国交正常化から8年半、平和友好条約が前の年に締結され、中国への関心は高まってはいたものの、一般の日本国民にとっては、中国はまだまだ「謎」の多い国だった。

また、東西冷戦のさなかだったことが微妙に影を落とす。訪問団の団長が、肉親が見つからなかったのに最後まで毅然としていたことが目を引き、「彼は実は孤児ではなく、中国当局のスパイではないか」などと、実しやかに囁かれていたことを記憶している。

この時に参加した孤児47人のうち、訪日調査で身元が判明したのは30人、63.8%だった。身元がわかった孤児は、肉親との劇的再会を果たし、長年の空白を埋めようと語り合う姿が見られた。

一方、身元の確定に至らない孤児たちは、ひたすら有力情報を待ち続ける。そうした悲喜こもごもの人間ドラマが、連日テレビや新聞で大きく報じられた。

翌82年の第2回訪日調査では、60人中46人、75%の身元が判明した。私が現場で直接取材をしたのはこの第2回までだが、75%の身元がわかって良かったと見る以上に、日本まで足を運んでも身元がつかめなかった25%の人に思いを致さざるを得なかった。

時の経過とともに、当時を知る関係者は少なくなっていくのは事の道理である。75%の判明率は前途を楽観させるものではなく、この時をピークに、以後調査を重ねるにつれて、55.7%、61.7%、54%と判明率が下がっていく。訪日調査団が組まれるようになって5年、86年の第10回調査では130人中36人、26.2%の判明率に止まってしまうことになる。

時間がない・・・。そんな焦燥感の中、1 0 0 % の確信が持てないまま、「似ている」、「証言がほぼ一致している」、などの根拠で、親子関係を確認したとするケースが、第1回訪日調査団の時に既にいくつかあった。そうした事態に警鐘を鳴らしていたのが、本文に登場する千野誠治さんである。

外見や記憶を頼りに親子関係を「確認」したとして、永住帰国をしたものの、帰国後に一緒に暮らすうちに、日々違和感を覚えるようになり、突き詰めていったところ、どうも間違いだったらしい・・・。そうした事態がいくつか表面化していた。

一旦、実の親子ではないとなると、関係は急速に冷える。結果として慣れない日本の社会の中で、頼る人もなく、職もなく、言葉も通じず、家にこもりきりになってしまう孤児が一人ならずいた。

私自身、山口県と新潟県でそうした事例を取材していた。

千野氏は、こうした孤児にとっての「二度目の離別」を避けるためにも、血液鑑定によって科学的な調査をすべきだと提唱していた。

実際に第1回訪日調査では、外見や記憶では一致点を見出せなかった人たちが、血液鑑定の結果で実の親子と判定されたケースもあった。

一方で、当事者同士が「親子に間違いない」と言っているのに「血液鑑定を」と勧めると、親子関係を否定しようとするのか、マイナス材料を探そうとしているのではないかと、激しい拒否反応が示されることがほとんどで、その後、血液鑑定が肉親探しの手段として定着していくまでには紆余曲折があった。

一連の肉親探しでは、かつての残留邦人、残留夫人が重要な役割を果たした。孤児と肉親ではないかと名乗り出た人の間で、通訳に当たったのがこうした人々である。孤児の状況、そして何よりも中国の状況については帰国者たちが最も詳しい。中国語が出来るというだけでは伝えられないニュアンスを、こうした人々が文字通りの「橋渡し」したのである。

この時に通訳に当たった人の中には、その後も所沢の定着センターで孤児の相談役となり、「母」と呼ばれていた人や、帰国者の会を通じて、その後の孤児の定住に関する便宜をはかるボランティアを続けた人がいた。

私は北京支局勤務をしていた1992年、天皇訪中を前に黒龍江省の取材に赴いた。その一帯には、北海道や岩手県の農家が指導した日本産の中粒米が根付いていると聞いたのである。収穫量が多く味もよいことで「奇跡の米」と呼ばれる米、それが作付けされた地域のひとつが、本編に繰り返し出てくる方正県であった。

天皇家の成り立ちは、稲作と不可分のものがある。天皇は毎年皇居の中で、今も稲作をしている。孤児が最も多かった地域のひとつに、天皇と関係の深い日本の米が息づく。その奇しき因縁を感じたものである。

その天皇が北京滞在中、孤児が発生する原因だった戦争について、「深い悲しみ(深感痛心)」と述べたことは、印象的であった。

当時、中国で高く評価されたこの発言を聞きながら、私は方正県を思い、81年の代々木に思いを馳せた。思えば私にとっての中国、その背景には、知らぬ間に孤児たちの物語があり続けたのかもしれない。

今日、私の交友関係の一角を、孤児、そして二世、三世が占めている。彼らの活躍は本編に触れられているが、元々の中国語に加えて否も応もなく日本語を学び、その後に大学などで英語やその他の語学を習得して、文字通りマルチの活躍をしている人もある。そうした人たちと話している時に、「何故そんな中国人のような考え方をするのだ」と指摘されることがある。これには、苦笑するしかない。

彼らはまさに本編にあるとおり、「中国系日本人」という新しいジャンルを形成している。そして、中国と日本の実情をふまえて、
過大にも過小にも見ない、いわば中国と日本を等身大で見ている人たちといえるだろう。

日中関係が、経験したことのない感情と実務のもつれを生じている時に、彼らは従来の架け橋を超えて、真の相互理解の使者たり得ると期待する。

中国残留日本人孤児という表現が妥当かどうか、この論争は当初からあった。残留という表現では、自らの選択で残ったというニュアンスが強く、実態を正確に反映していないからだ。

本書の著者は「遺孤」、すなわち遺児とすべきだとする。一方、日本語で遺児というのは、捨てられた子供という以上に、親に死なれた子という意味の方が強く、これまた馴染まない。そして、中国残留日本人孤児という言葉は、行政上の言い方、テクニカルタームを超えて、日本の社会の中に定着している。

そこで、共訳者の田建国さんとも相談の上、日本語の読者が違和感を持たない自然な日本語にするという観点から、中国残留日本人孤児という訳語で統一することにした。また「帰国・定住」に関しても、日本で定着している「永住帰国」に統一した。

五洲伝播出版社を介して、田建国さん、董燕さん夫妻と共同作業をするのは、これが4回目である。こうした機会を与えていただいたことに感謝したい。作業を終えた今、今後もこの顔ぶれで作業を続けることによって、私たちにも何らかの「使者」たるべしと、孤児や関係者が語りかけているような気がしている。
 

トップページ